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Thursday, 27 May 2010

愛すべき人達へ

私は幸せ者。
一年間も家を空け、妻としての役割を放棄し、自分の為だけに「遊ぶ」事を選んだ私を支えてくれる夫がいる。さらに、この私の自分勝手な決断を否定せずに応援してくれる仲間がいる。

誰かの為ではなく、自分の為だけに私は大金をはたいて異国へ行く。

それでも私の周りにはそれを否定する人はいない。誰かが一歩踏み出そうとしたら、その決意をくじこうとする人はいない。当たり前のようだけれど、それがそうでもない。無意識という兵器でドカンと、もしくはジリジリと、他人の決意を破壊する人種が存在する事を私は知っている。

友情という言葉があまり好きではない。
私には友人に対して「友情」はない。それはだたの「知り合い」と言われるのだろうが、それではあまりにも冷たい感じがするので「友人」と呼ぶ。そもそも「友情」というのはお互いの信頼や共感があってそこ生まれる感情であるはずだから、私が相手を信頼していなかったり、相手が私を間違った観点で捉えてそこに共感されているのであれば、そこには「友情」は存在しない事になる。むやみに友情を押し付けられても、それに答えようとすればそこに待つのは自分自身の破滅か、憎しみを伴う関係破滅。だから「友情」を否定はしないが、むやみやたらに「友情」を持ち出す人を信用しない。

「友情」に関して否定的なことばかり書いたが、それはただの「知り合い」に対して「友情」を押し付ける事への非難であって、真の友情を否定しているわけではない。家族、近親者以外に対する感情が「友情」なのであろうが、私が「友達・友人・仲間」と呼びたい人達に対して持つ感情を表現するなら「愛情」が一番しっくりくる。その人達の為ならば、どんな自己犠牲もいとわない。相手はそこまで思っていないかもしれないし、また私が一方的にその人の為になら自己犠牲を払いたいとまで思っている可能性もある。「友情」の押し売りはしたくないし、されたくもないから相手にそれを求めることはしない。正直「友情」ってのはお互いの意思確認が必要とされ、お互いの価値観や、共感度合いに左右される感情であり、相手にも同じ感情を求める為に面倒な事が多い。そしてそれ故に脆い。お互いにお互いの評価に相違があれば、それは「裏切り」とも呼ばれる。「友情」を乱用する人は「裏切り」という言葉も乱用する。いい迷惑だ。

私の大切な人達への感情は「愛情」であって「友情」ではない。血縁者への愛情は、自分の意思ではなく必然的に生まれるが、それ以外の人達に対する感情は、自らその人達と繋がっていたい、大切にしたいと思う強い「意思」である。そして同じ価値観や、自分が相手を思っているのと同等の感情を持つように求めない。だから「愛情」というのは自らの意思を強く必要とされる感情であるといえるのではないだろうか。

だから、自然にお互いを思い合う(もちろんお互いに、それを求めているわけではなく)「愛情」という意思をもった人達が集まると、そこにはとても温かく優しい空気が流れる。相手に何かを求める感情ではないのだから、相手の価値観や相手からの自分の評価は関係ない。完全に同じ価値観を持った人というのは存在しないわけだから、少し自分と違う価値観を持っていても、相手が自分の事を思う気持ちの度合いなど関係ないのが「愛情」ではないだろうか。予断だが、こう考えると「愛人」というのはよく言ったもんだと思ってしまう…。

愛人などと話はそれてしまったが、私には親友と呼べる友人はいないが、私が「愛情」という意思で大切にしたい人達、幸せでいてほしい人達が沢山いて、また無条件に私を温かく見守りサポートし、私の幸せを願ってくれる人達がいる。私が何かを成し遂げる事を期待したり、強要したり、見返りを求めたりしない。ただ寄り添ってくれる。倒れそうな時、いつでも手を貸せるように。

私は本当に幸せ者。

愛すべき人達がいて、「愛情」をもって私と関わってくれる人達がいる。

期待や要求はなしに私の幸せを願ってくれる人達を落胆させたくない。だから私は私の幸せの為に一生懸命生きる。

無理やり築いた友情の数々で、人を信じる事が出来なくなった。
新たに人間関係を築く事を恐れて外に出ることが出来なくなった。

それでも、見守ってくれる人達がいるからそれで幸せなんだと思っていた。
もちろん幸せだよ。

でも、私はなんでだろう。
心から笑えない、楽しいと思えない、自分は幸せ者だと分かってはいるけど、以前はもっと素直に笑えたし、楽しいことは自然に楽しいと思えた、生きてて良かったなあと思えた。でも今、ポジティブな感情を無理やり作っている、心と思考がバラバラで、「楽しい」と頭で考えているが、心は「つまらない」と感じている。だから「幸せ」だと頭では分かっているのに心は「幸せじゃない」と思っている。

こんな事、言わなければわからない事なのかもしれないが、もしこれで不快な思いをする方がいたらごめんなさい。自分への戒め、そして今の自分の表現として書く事を許してください。
大切だと思い、幸せを願っている人達への自分自身の感情・意思にまで、疑問をもってしまう。「愛情」という強い意思さえも、私は混乱して分からなくなってしまう時がある。こんな葛藤は苦痛でしかないし、「愛情」をもって接してくれている人達への最悪な仕打ちだ。

そんな自分から脱したい。

「愛情」という意思をもって、私を支えてくれる人達の為にも
私は混乱を起こしている自分自身を落ち着かせて、「幸せ」を素直に「幸せ」と感じれるようになりたい。欲深いからきっと「もっと、もっと幸せに…」と思うかもしれないけれど、「不幸だ」と思うような卑屈な人間でいたくない。

卑屈なのは性格かもしれないけど、それが他人に不快な思いをさせてしまうような人間でいたくないし、卑屈すぎて自分自身を苦しめるような生き方はしたくない。

もっとおおらかに、穏やかに、素直に。

ギスギスした自分を開放する術を探してる。
だから私は少し環境を変えてみます。
違う言語で、違う環境で、違う人種の人と接してみます。

「怖い」と思って、飛び出す勇気を持てなくなって閉じこもりすぎたかもしれません。何度も飛び出してみようとは思ったけれど、着地に失敗しそうで途中で引き返してしまったり、いつも逃げ出してしまう事ばかりですっかり「リアイアぐせ」がつきました。

ちょっと強行手段かなと思ったけれど行ってくるね。
着地に失敗するかもしれないけど、「リタイアぐせ」から脱したら変われそうな気がします。あまり自分にプレッシャーをかけるとまた混乱しそうなので、とりあえず1年間日本に帰らないという条件をクリアする事だけを考えます。

私の自分への挑戦、自分の幸せを感じる為の一歩を応援してくださって本当に感謝しています。あなた達からの励ましの言葉や、行為には素直に「嬉しい」と感じる事ができています。壮行会を開いていただけるというメールを頂いて、涙が出たのは私の頭と感情が正常を取り戻しているからでしょう。本当に素直に「嬉しい」と思いました。素直に「嬉しい」と思えた自分にも驚き、感動を覚えました。「感動」という言葉に嫌気がさしていた自分、「感動」という感情を失くしてしまったのではないかと不安で仕方なかった日々からは脱したようです。まだ出発まで時間はありますが、何をみても何を聞いても「感動」する事が亡くなってしまった自分から脱した状態で出発できる事をとても嬉しく思っています。

感謝を伝えきれる言葉がありません。「ありがとう」を何度言っても足りません。
だから私は沢山感動をして、感動できる喜びを自分を偽ることなく感じれるようになって帰ってくるよ。プラスのオーラを発しながら帰ってくるよ。「幸せ」「喜び」を伝染させられるような人になりたいんだ。そしてみんなを幸せオーラの渦に巻き込みたい!!(ちょっと大きくですぎたかな)。

一年間のワガママにお付き合いくださる愛すべき人達
そっと私を見守ってくださる人達へ
ありがとう
行って来ます

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